チラシ表

Iさんについて

 1925年生まれのIさんは、元々小柄で苦労はありながらも、5人の子供を育て上げた方で、とても穏やかで朗らかな性格であり、周りには常にIさんを慕う人が集まっていました。

 60歳の頃、様々な病気が見つかり、80代では多発性骨髄腫に罹患しましたが、これらを乗り越え、90歳を超えてもなお一人暮らしを楽しみ、生きる意欲に満ちており、Iさんの夢は2020年の東京オリンピックを家族とみることでした。

愛知医科大に入院

 Iさんは、2017年5月9日、肺炎で意識不明になり、愛知県医科大学病院に救急搬送されましたが、奇跡的に意識が回復し、酸素マスクをつけながらも会話ができるようになり、5月30日には抗生剤の投与もいったん終了しました。

 Iさんはせん妄のため、点滴を自分で抜いてしまうことがあったので、右手のみ、あるいは両手にミトンをはめられることもありました。しかし、昼間はナースステーションで看護師らが様子を見守っており、ミトンで抑制されるのは夜間だけでした。そのほかベッドからの転落を防止するためIさんの襟元にはクリップセンサーがつけられており、外れるとブザーが鳴って看護師が駆けつけるようになっていましたが、それ以上の抑制はありませんでした。

 同年6月に入ると、血液内の肺炎球菌も消え、Iさんの体力は徐々に回復しました。6月中旬には歩行器を使い、トイレまで歩けるようになりました。発熱して再度抗生剤を再投与することもありましたが、6月21日にはそれも終了しました。

 面会時間には家族と車椅子で院内の喫茶店に行くこともでき、自分の洗濯物を畳んだり、新聞を読んだりして過ごすこともありました。また、日中は車椅子に乗り、塗り絵などを行うこともあり、その際はナースステーション前に移動し看護師が見守っていたため、点滴を外すことも無く、ミトン等の抑制を受けていませんでした。

 同年6月26日には嚥下食を開始し、食べ物の感想を述べており、その写真が画像の上の写真です。ただ、しばらくして誤嚥性肺炎の可能性が出て、再度欠食となりました。

 同年7月になると、愛知医大から「このまま同じ抗生剤を使用すれば症状は安定する」と説明を受け、リハビリもできるという理由で、おりど病院への転院を勧められ、転院することとなりました。愛知医大を転院する際、Iさんは看護師に笑顔で挨拶するほど回復していました。

おりど病院に転院

 7月7日、おりど病院へIさんは転院しました。おりど病院の主治医から愛知大と同じ治療を続けると説明をうけ、Iさんの親族は抑制の同意書にサインしました。

 しかし、7月10日、親族が夕方におりど病院へ向かうと、Iさんは酸素を送る管を鼻に通し、両手をベッドの柵に縛られ、身体を動かすことができないようにベルトのようなもので胴を固定されていました。その写真が画像の下の写真です。

 7月13日18時20分頃、親族がおりど病院へ向かった際も同じ様子で、Iさんは滝のような汗をかいており、看護師に抑制を外すよう依頼しましたが、「面会中だけならいいが、面会が終わるとまた縛る」旨伝えられました。

 同日19時40分頃、Iさんは危篤状態となり、19時53分、亡くなりました。死亡診断書では直接の死因は両肺炎球菌肺炎とされていますが、最終的には心不全で死亡し、死因について医師は痰が詰まった可能性もあると認めています。

 Iさんは、愛知医大のような方法で対応ができるにもかかわらず、過剰な身体拘束を受けることになりました。長時間の身体の固定は運動、体動の著しい減少につながり、呼吸機能自体も直接に抑制されます。これらが排痰や肺炎治療に悪影響を与え、Iさんは亡くなってしまいました。

 病院による身体拘束は決して他人事では無く、みなさんの大切な人やみなさん自身に起こりうる問題です。ぜひ、この問題に関心をもっていただき、傍聴にも来ていただきたいと思います。みなさまのご支援をよろしくお願い申し上げます。

口頭弁論の日

口頭弁論は2020年2月12日(水曜日)11時~

※ なお、名古屋地方裁判所では入廷前に手荷物検査を受ける必要があります。傍聴者が多数の場合混雑しますので、30分程度のゆとりをみてお越しください。

判決と口頭弁論の開かれる法廷

名古屋地方裁判所1104号法廷(11階)