(この記事の執筆者:塚田聡子)

彼岸花

9月15日、俳優の樹木希林さんが亡くなった。存在感のある名優だったと思う。是枝監督の作品の常連で、脇役でも、説得力があり味わい深い演技を見せていた。

印象深いのは、演技だけではなくその生き様だ。全身を癌に冒され、迫りくる死に向き合いながら、最後までユーモアを失わず、飄々と生きていた。その一方で、演技に対する情熱を失わず、精力的に映画に出演をしていた。最後まで見事に生き抜いた。

希林さんは、とても真摯に、自分の哲学を持って生きたひとだと思う。

希林さんの娘である内田也哉子さんのエッセイに、「編み物でもなんでもいいから、自立して、自分自身が向き合って楽しめる何かが見つかるといいね」と言われていたとある。なかなか奥深い言葉だと思う。仕事や家族の世話が生活の全てというのでは、ある意味、それに依存しているのと同じだ。そうではなく、自分自身が心から楽しめる何かを見つけることで、人生は豊かに輝くし、それが生きる力にもなる。

もう1つ、「何かをやるとき、やってあげると思うのはおこがましい。自分がやりたくてやらせてもらっているのだと思いなさい。そうすれば空しくならないから」という言葉も心に残った。一生懸命やっているのに認めてもらえないという気持ちは、結構くせ者で、やればやるほど空しい気持ちに襲われてしまう。自分の意思で動いているのだという気持ちを忘れずにいることが、大切だ。

希林さんは、葬儀やお墓を自分で準備していたそうだ。人が老いて死んで行くのは特別なことではないと孫達に教えたくて、三世代で同居していたらしい。死を忌むことなく、常に向き合っていたのだと思う。

フランスのミッテラン大統領が、癌で余命を告知されたとき、「何の追憶も物悲しさもない。私は人生とは何かを知っているし、その儚さも知っている」と語った。そんな風に、死を当然のこととして受け入れるのは、生半可な覚悟では出来ない。

どう死ぬかも含めて、人生の一部であり、そのひとの生き様を現していると思う。